2016/
4/22
【韮崎市】武田ゆかりの史跡
兵どもが夢の跡・武田勝頼の城・新府城です
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南アルプス・韮崎
文化
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未完の城・新府城
韮崎市中田町にある新府城です。1575年の織田・徳川との長篠の合戦で壊滅的な打撃を受けました。武田勝頼はその後、1579年に真田昌幸に命じ韮崎に城を築いたのです。当時の武田は現在の武田神社、つまり躑躅ヶ崎の館に拠点をかまえておりました。しかし、信長との決戦で決定的な差となったのは、貿易で鉄砲・火薬を輸入したことでした。勝頼は駿河の海へ続く釜無川の近くに城を築き交易を盛んにして対抗する必要があり、七里岩という絶壁に築城し敵の攻勢を防ぐ目的がありました。
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信玄の後継者・武田勝頼
1573年に信玄が上洛をめざし病で倒れた時、勝頼28歳の若さでした。その時の家臣は強者で曲者ぞろいで若き当主の意見が通りませんでした。勝頼の求心力のなさの原因は勝頼は諏訪の人間であり、信玄の溺愛した湖衣姫の嫡男であったこと、諏訪の人間が武田の後継になることを不快だった家臣が多かったことでした。勝頼は戦で勝ち、結果を出すしかなかったのですが、織田・徳川の連合軍の鉄砲部隊に1万2千の兵で挑みながら完敗したのでした。
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武田の滅亡
この神社は同じ韮崎市神山町にある武田八幡神社です。武田の館は甲府の武田神社よりこちらの方が歴史が長いのです。この神社に勝頼の妻・北条夫人が戦勝を祈念し、奉納した願文がおさめられ指定文化財となっています。新府城築城後、数ヶ月で織田信長が甲斐を侵攻開始しました。勝頼はこの城に火をかけて夫人や少ない家臣とともに今の大月市・岩殿山を目指し逃げ延びましたが、家臣は離れていき最後は今の甲州市大和町・天目山で自害されました。黄金時代から受け継いだリーダーシップのむずかしさ、そして当時としては鉄砲というハイテクに壊滅させられ、技術革新することのむずかしさなど、武田の滅亡は我々の時代にも通じることがあると教えてくれます。甲府の武田神社が武田のすべてではありません、本当の武田を知るならば、少なくとも新府城、武田八幡を散策してみてください。
スポットデータ
住所 | 山梨県韮崎市中田町中條上野字城山4787 |
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電話番号 | 0551-22-1111(韮崎観光協会) |
URL | http://www.nirasaki-kankou.jp/?page_id=101 |
定休日 | 年中無休 |
この記事を書いたコンシェルジュ
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波木井 淳一
営業担当の波木井です。リニア新幹線と中部横断道開通が待ち遠しいですね。